【聖書箇所】
「Ⅱヨハ 1:9 だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。
1:10 あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。
1:11 そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。」
「だれでも行き過ぎをして」とは、最初の福音の教えであるキリストの教えにとどまっていないで、行き過ぎた解釈や個人的考えをキリストの教えに、混ぜ物をして教える者が現れました。その様な者は、「神を持っていません」神を持っていないとは、神の子ではないと言う事を言っています。しかし、キリストの教えの内にとどまっている者は、「御父をも御子をも持っています。」「御父をも御子をも持っています。」と言うのは、御父と御子に属する神の子と言う事です。
聖書では、多くの人が神の言葉に混ぜ物をして教えている事が書かれていますが。20世紀時代のキリスト教の教会がまさにこの御言葉の状態になって来ているのではないでしょうか?聖書には、「神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず、真心から、また神によって、神の御前でキリストにあって語るのです。」とあります。、神の言葉を自分の生活に合わせて曲げて教えるような事をせず、真心を持って神の御前で聖く正しい心でキリストの教えによって、語るのですと言う事です。神の御言葉は、私達の道であり真理です。道を曲げてはいけません。なぜなら、この道の先には幸せと救いがあるからです。聖書の御言葉は、神様が私達を幸せに導くために、書かれた神様からのラブレターです。神の御言葉を自分の生活に合わせて、曲げてはいけません。自分の生活を神の御言葉に合わせて、真っ直ぐにしなければなりません。それが、幸せへの近道だからです。
10節では、私達のところに来る人で、キリストの教えの内にとどまっている教えを持ってこない者は、「家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。」とヨハネは教えていますが、この頃、異端的な偽りの教師たちが教会や教会員の所を巡回訪問していた事に対して、注意を与えています。ヨハネは、偽教師達を受け入れてもてなしてはいけませんと教えています。異端者が噓を広めることの手助けになってはいけません。もし、信者達が彼らを招き入れもてなしたとしたら、彼らの異端の教えおも、受け入れたとみなされる事を忘れてはいけません。
この世には、多くの間違った教えがあふれています。気を付けなければなりません。罪びとを愛をもって受け入れる事と、異端者を愛をもって受け入れることは、全く違います。今の時代、「考え方は多少違っていても愛をもって受け入れ一つとなりましょう。」と言いながら、異端を秘かに持ち込んでいます。しかし、神と悪魔は一つとはなりません。神と悪魔は正反対のものです。善と悪、平安と不安、幸福と不幸、正しさと偽り、命と死、光と闇、この様に神と悪魔は一致する事はありません。だまされてはいけません。愛は寛容だからと言って、どんな事でも受け入れる事が出来るわけではありません。神は愛に富み寛容でとてもやさしい方です。しかし、イスラエルの民が二万四千人滅びたように、罪にはとても厳しい方です。
聖書には、はっきりと神罰の事が書いてあります。その場面は、イスラエルの民がカナン人の女とのみだらな行為から始まり、その裏には、偶像神バアル・ぺオルによるみだらな行為を伴う異教的儀式がありました。神様は、その不品行と偶像崇拝に対して怒りを燃やし神罰を与えて、二万四千人滅ぼしました。本当に神様は罪には厳しい方と言う事が良く分かりました。
11節では、偽教師達を招き入れもてなすどころか、挨拶をしてもいけませんと教えています。挨拶をしただけで、その悪い行いを共にしている事になるのですと教えています。
「だれでも行き過ぎをして」最初の福音の教えであるキリストの教えにとどまっていなければなりません。行き過ぎた解釈や個人的考えをキリストの教えに、混ぜ物をして教えてはいけませんと聖書は教えています。
神の御言葉は、私達の道であり真理です。道を曲げてはいけません。なぜなら、この道の先には幸せと救いがあるからです。聖書の御言葉は、神様が私達を幸せに導くために、救いに導くために書かれた神様からのラブレターです。神の御言葉を自分の生活に合わせて、曲げてはいけません。自分の生活を神の御言葉に合わせて、真っ直ぐにしていく様に教えられました。